あってもなくてもいいもの。
たとえば、ラーメンの紅生姜。
私の撮る写真も、あってもなくてもいいものだと思う。
それは、たぶん、私自身も――。
余白を省いた暮らしは、豊かだろうか?
だけど、
あってもなくてもいいものを削っていったとき、
本当に豊かな暮らしって、残るのかなと思う。
アイデアも、ゆとりも、やさしさも。
どれも「あってもなくてもいい」ような、心の余白から生まれてくる気がする。
人との関係にも、余白があるといい
「合う人だけ」「好きな人だけ」で世界を囲いたくなるときもある。
でも、そういうときって、きっと自分の心の余白が狭くなっている。
「あってもなくてもいい」と思える関係こそが、
実は、いちばん自由で、やさしいのかもしれない。
写真と空気感
写真も、被写体だけじゃなく、映らない部分、ファインダーの外――
その“余白”が、写真全体の空気感をつくっている。
紅生姜があることで「ラーメンらしさ」が立ち上がるように、
私の写真も、どこかで誰かの何かを整える存在になれたらいい。
そっと添える、あってもなくてもいいもの
きっと、
「どうでもいいもの」を丁寧に扱える人が、
ほんとうの豊かさを知っているんだと思う。
今日のラーメン屋には、紅生姜がのってるだろうか。
私の写真も、そっと誰かの一枚に添えられていたら、嬉しい。
※これは日々ストックフォトを撮る中で感じた小さな気づきです。
普段の撮影や暮らしの中で、「どうでもいいようで、実は大事なこと」に目を向けてみるのも、いいものですよ。